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2025年

<やめるにやめられぬ宮中服>

宮中服/宮廷服とは、1944年9月30日の皇室令「宮中における女子の通常服に関する件」で制定された皇室の婦人服。


<主要人物>

■皇太后 貞明皇后(大宮)(おたた様) 1951年5月17日死去

■天皇  昭和天皇(長男)
■皇后  香淳皇后(良宮)

■次男  秩父宮雍仁親王
■妃   秩父宮勢津子妃  

■三男  高松宮宣仁親王
■妃   高松宮喜久子妃

■四男  三笠宮崇仁親王
■妃   三笠宮百合子妃


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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年6月22日
昭和天皇◆田島は知らぬから宮中服のできた沿革を話しておこう。
それは第一に高松宮妃殿下の主唱でできたので、秩父宮妃殿下などと研究の結果できた。
私はむしろ反対だったが、結局出た。
理由は洋服は英米的だというのである。
同盟の独伊も洋服だからと反駁したが、軍人などは何か国粋的なものという声を上げてた。
これに妃殿下がまず乗ぜられた。
第二に繊維不足という時勢の声に対し、一反の反物ででき、上衣は丸帯でできるということであって、まあ結局承知したが、後でわかったことには、上衣は丸帯ではできず新調ということになり、東久邇の叔母さん〔東久邇宮聡子妃〕など「洋服以上に面倒だ」と私にこぼされるようになり、宮内大臣松平恒雄に上衣をやめることをいくら話してもなかなかやらず、通牒でやっと出したが、「戦時中」とあったゆえ、これを「当分」と変えようとしたが、松平は遂にやらず宮内大臣が石渡荘太郎になってこれが実現した。
上衣のヤメやら何やらでおたた様は結局今までお着にならず、お作りにならない。
なお高松宮妃殿下の御自分的な理由は、今までの洋服裁縫師がいなくなったことであるが、これは私的な理由で私はどうも賛成できなかった。
その高松宮妃殿下が戦後批評が出るとすぐ洋服を自由になさるのはどうかと思う。
秩父宮妃殿下の、相当の研究の結果ゆえ不評でも何とか改良してという立場の方が理解できる。
フランス大使か誰かが三笠宮妃殿下に「この服はなってない。パリでお作りなさい」と言ったこともあると聞いている。
私は宮中服には本来賛成してない。
和服が良いと思うが、大宮様が不様という訳で不賛成で宮中服となり、しかも大宮様は宮中服は召さぬ訳だ。
田島長官◆和服について併用の意味で大宮様のお許しを得て、和服の方向に行き得るかよく研究いたします。
昭和天皇◆おたた様のモンペも戦争の防空から来てて、戦時色はある。
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『高松宮日記』

※当時の総理大臣の年給は9,600円

1943年11月2日
お姉様〔秩父宮勢津子妃〕より新服装〔宮中服〕につき御説明申し上ぐ。
喜久子、着て御覧に入れる。
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『高松宮日記』

※当時の総理大臣の年給は9,600円

1944年8月11日
喜久子、皇后様に例の新しき服装の件〔宮中服〕申し上ぐ。
御上 宮内大臣に新服には反対だと御興奮なりしも、松平宮相これは思召とも伺えず、主旨に御賛成とのことで進めておった云々と申し上げ好転せしめた由。
御上の御興奮も困ったものなり。
困ったぐらいでこの重大時局をどうしたらよいか、ほとほと安き時もなき思いなり。
どうしたらよいのだろう。

1944年8月21日
喜久子と大宮御所へ。
できたての唐衣〔宮中服の一種〕御覧に入る。

1944年10月6日
宮中婦人新装〔宮中服〕発表まで進んだので、お姉様と喜久子とで宮内大臣・宮内次官・式部次長武井守成・式部課長坊城俊良・皇太后宮御用掛山中サダを呼んで慰労会食。
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『高松宮日記』

※当時の総理大臣の年給は9,600円

1946年1月19日
各妃殿下集まって、服装問題等御相談。
昨年制定の宮中服にみなさま文句多く、もともと国際式典等で日本婦人が洋服で出ることが、宝石で競争すれば負け、容姿でも負け、ファッションでも負けで、支那やタイやみなそれぞれの国の服装で出て来るのに対しても負けとなり話にならぬから、日本の服装をという考えに発端するのだが、みなさまは戦時中の洋服縫製難やモンペに対する洋服、それも宮中的なけばけばしさは着られぬと言ったことからのみ考えるので熱意も出てこぬ。
皇后様に至ってはまったくただ洋服の情勢で考えていらっしゃる。
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元国際文化振興会理事長・子爵加納久朗から宮内庁長官田島道治への手紙

※当時の総理大臣の年給は30万円

1948年8月30日
国家の重大期に際し重大なる御任務に御就任以来、お骨折りのほど感謝に堪えませぬ。
甚だ畏れ多いことではありますが、皇室は内には国民の模範であり、外には国民の代表であられますので、御服装のことは特に御注意を願いたいのです。
ことに大礼服がなくなり軍服がなくなり勲章とか儀仗兵というものもなくなりましたので、皇室の方々の御服装のプレーンなものになりましただけそれだけスタイルに御注意が入用になりました。
つまり金モールや勲章でごまかしが効かなくなりました。
洋服というものは西洋人には立派に着られるが東洋人にはちゃんと着られぬかと言うに然らず、きちんと立派な服装をしていると世界人は尊敬します。
でありますから、日本人は西洋人以上に洋服について注意して着なくてはいけませぬ。
注意さえすればかえって西洋人に尊敬されます。

天皇陛下の御洋服を二回じかに拝し、御写真も度々拝しますが、御肩のパディングが足りませぬ。
また御袖のつけ方が悪く、御袖が短すぎます。
それゆえ御肩が落ちて貧弱に見えます。
おズボンが細くかつ短すぎます。
プレスが足りませぬ。
御外套は特に御肩のパディングを多くせぬと貧弱に見えます。

皇后様の宮中服なるものはまったく不調和なものでおやめを願いたい。
御洋服をはいするに、ファンデーションをなすコルセットまたはガードルがお合いにならないのではないかと存じます。
ある御写真にはスカートから御下着が出ているものがあります。
御帽子には特に御注意願い、御顔にマッチした皇后型の基準を考え、それを流行に応じて少しずつモディファイする必要があります。
イギリスのメアリー皇太后や現クイーン常に決まった御顔に合った標準型を決めておられるから、常に上品でディグニファイしておられるのです。
この点、御苦心を願います。

皇太后さまのおズボンと旧式のハイヒールの御靴は御改正を願います。
皇太后様らしい立派な上品な御洋服を、我々は拝したい。
要は国民が仰ぎ見て、御真似したいような御洋服を願いたいのです。
御経費は金モールや勲章や剣に比して安い物です。
この手紙を皇后様・皇太后様の侍従の方々にもお見せくださって、忠誠なる一国民である私の願いを諾いていただけば幸甚です。

1948年9月20日
先日高松宮妃殿下より、高松宮妃殿下と秩父宮妃殿下とが御苦心のすえ宮中服なるものができたが、いまだに不満足なるゆえなんとかいたしたし、秩父宮両殿下がイギリス戴冠式に御列席の際、日本だけが Nation Costume がなかったことが動機となったという御話あり。
至極ごもっともなり。
大兄の御意見の通り Stately にはできるだけ立派でありたしと言う点からすれば、将来の公式拝謁の際のごときはうんと立派な西陣織ブロケードか何かで派手に見えるように御工夫大切なるべく、打掛式のものがよいかと思う。
ただし小生の意見は公式・私式を問わず、天皇皇后両陛下・皇太后様のスタイルが悪いという点にあり。
十分テーラーの御選択を願いたい。
日本一の立派なスタイルに願いたいと言うにあり。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は48万円

1949年3月10日
田島長官◆大礼服にはモーニング、モーニングにはモーニング、すなわちモーニングのところは一段下がって背広でよしではないと思う。
ただし黒または紺の背広でちょっと略式は如何かとも思う。
昭和天皇◆高松宮妃殿下 婦人宮中服に熱心なる賛成、陛下はあまり賛成でなかりしこと、上衣のありしこと、大宮様の御意見ありしこと、洋服が良いが手袋等如何と思うこと、自分の一案はモーニングに白衿紋付、徳川以来の一応完成風俗ゆえ良し、背広には洋服、大礼服には袿袴ということなるが、大宮様反対の様なり。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は72万円

1950年6月21日
田島長官◆法務院総裁殖田俊吉は宮中服や三笠宮の国民服をおやめいただきたいと申しておりましたが、殖田総裁は戦時と結びつけているようですが、あれは必ずしも戦争では。
昭和天皇◆いや、あれはやはり戦争を契機としてできたものであるから、戦争後今日やめたいというのは一理ある。
西洋人は悪いとは言わぬ。
マッカーサー夫人もいいと言う。
田島長官◆ヴァイニング夫人も悪いとは申しませぬ。
昭和天皇◆しかし私は和洋二本立てを考えてる。
将来大礼服でもできれば、その時は袿袴、モーニングには白衿紋付の和服、背広に対しては洋服という風に思ってるが、和服についてはおたた様が御反対ゆえ、なんとも言い出しかねる。
田島長官◆別に宮中服をやめとせずに、ある機会に和服をお召しになりましては如何でございましょうか。
昭和天皇◆それはよいだろう。
和服は新調を要するが、式服は一つではこまるが三つもあればよい。
それだけの予算は要るよ。
おたた様のモンペもやめていただきたい。
大宮御所の女官たちも御命令ゆえ困ってるとのことだ。

1950年7月30日
田島長官◆大宮様に「陛下の御服装はずいぶん庶民的な背広がなんら疑問なくありますに対し、御婦人の宮中服は終始批評されおり、近来は不評が多く、苦慮し、いろいろ考えました。現在の御服装はそのままとして和服もお用いになりましたら如何と思いつきました次第で、一部には職業婦人の職業服との説もございまするが、現在一般階級の礼服となっておりますゆえ、色合・模様で上品にもできることゆえ、一度お用いになるは如何でございましょうか」と申し上げましたが、
和服については「帯というものがどうも」との仰せがありました。
「宮中服については、私がはじめ考えたのは今のと違い、皇后様のでも制式が違っている」との御話で、
「正式のものは高松宮妃殿下のところに写真がある」
「上衣のことでございますか」
「それ以外に縫製等が違う。また支那式のものもあった」
和服に必ずしも御賛成とも存じませぬでしたが、一応それで退下しました。

1950年7月31日
昭和天皇◆おたた様が宮中服を戦時服に関係ないということはどうも違う。
あれはどこまでも戦時中のもので、私はむしろ「戦争中は洋服で通し、戦後に考えたら」と言ったのだが、どうしても洋服は英米的だとてかれこれ言う考えが起ってあれができたが、ドイツもイタリアも洋服でおかしな話だが、皇室令で決めれば沙汰やみかと思って宮内大臣が松平恒雄の時に言ったが、それもついに皇室令で決まった訳だ。
これはどう言っても戦時的だ。
今これを廃止する声の起こるは当然。
正式の宮中服と違うというおたた様の御話は、袴の方のひだが少し多いこと、肩が少し洋服式なのを日本式としたこと、衿が少し違うこと、帯をやめたことの四つのようだが、これは良宮が太って身体の都合上こうしたのだ。

1950年8月10日
田島長官◆大宮様が秩父宮妃殿下に「下々のこと取り入れるに反対、下 上に倣う」との仰せありました由。
こえは上の御方が仰せになることではないと存じますが、田島の和服案に御賛成でないのと存じます。
昭和天皇◆東宮ちゃん・常陸さん・内親王みな良宮の宮中服に反対で、良宮は実に困ってる。
一般からも宮中服は評判が悪いしするから、これは至急なんとかしてくれぬか。

1950年8月15日
昭和天皇◆おたた様の「下が上に倣う」との仰せに矛盾の大宮様御行動がある。
例えば端午の行事・正月の御流れ・初荷のごとき2~3の事例に見ても、下のなすことをお取り入れのように思う。
御自分のモンペの御弁護のための御話ならずや。

1950年9月30日
田島長官◆事務主管の後はやはり入江相政がよろしいように存じます。
昭和天皇◆良宮も是非いかぬと言ったものでもなしそれでもいいが、しかし入江は服装のことはどうも少し変であって、孝ちゃんの時〔孝宮和子内親王の結婚〕振袖のことについて名取と組んでどうも腑に落ちぬことがあり、宮中服についてもちょっと変な考えを持っているようだから、事務主管になってもよいが、服装の考えは修正してもらわんと困る。
入江は服装の問題、主として宮中服に関し、ヴァイニング夫人は賛成と言いながら内地ではそう広く言わず、マッカーサー夫人に聞いたところ、「外へは言わぬが賛成」とのことで、実際評判の左右にはならぬにもかかわらず、孝ちゃんが宮中服反対のことなどわかりそうなものを、漫然「ヴァイニング夫人などもよろしいと申しますから」とて宮中服をいいと言うのはどうもおかしい。
田島長官◆入江は国文の研究者でもあり女子服装のことが分らぬ訳はなく、今後は式部官長も侍従長も参画し、女官長もまた場合によりては田島も参加するようにして、御不満のないように致します。

1950年10月9日
昭和天皇◆和服のことだがねー。
おたた様御機嫌のおよろしい時に今一度伺ったらどうだろう。
田島長官◆御機嫌のおよろしい時に今一度申し上げますることは結構でございまするが、必ず御賛意を承ることができるかどうかは疑問のように存じます。
むしろ実行遊ばす旨の念のためのお知らせということかと存じますから、それは適当の時に田島が伺いまして申し上げましょう。
だいたい皇后様が和服を召しますのは、ただ今は来年正月をお考えでございましょうか。
昭和天皇◆外人謁見の時と思ってる。
正月は洋服なり宮中服なりにしたらと思ってる。
田島長官◆大宮様は「正式宮中服にしてみたところで、国民世論というのも少しおかしいが、一般の宮中服に対する不満が変わるわけではなし」との仰せゆえ、大宮様の正式と仰せにお変えになっても、宮中服は宮中服で評判に変りはありません。
(大宮様のお許し、せめて御黙認でもない限り御注文も遊ばさぬらしき御様子に拝せしゆえ)
田島長官◆染に時間もかかりますから御注文だけは遊ばしては如何。
(なお陛下が正月にはお用い無き理由は)
昭和天皇◆正月は黒でやや地味にせねばならぬが、外人謁見のような時は色物でやや派手でもよいから。

田島より女官長と話し合いのお許しを得、二回話し合いの結果、私ども一同連絡不十分のことをお詫び致し、今後は十分注意しますゆえ、女官名取ハナ・侍従入江相政もすべて水にお流し願うことに話し合いましたところ、土曜日女官長来邸、皇后様の水に流していただける旨を拝しました。
改めて連絡の不十分をお詫び申し上ぐ。

侍従次長鈴木一が退官に際し、「陛下の服装問題にかれこれ仰せになることを御諌言的に申し上げしこと、高松宮様らをよく御抱擁願いたしとの申し出のこと、ゴルフの問題のこと、順宮厚子内親王は浅野長愛へ御降嫁よろしかるべし」とのこと申し上げし由承る。
昭和天皇◆鈴木は辞めてよかった。
田島長官◆線が太いので場所によっては大いに使えると思いますが、侍従次長のような気を配る点は不適。

1950年12月18日
田島長官◆東久邇宮稔彦王もいろいろなことで宮内省のやり方を怨みひがんでいらしたらしいのが、昨夜はそんな御様子はありませんでした。
昭和天皇◆それは東久邇さんばかりではない。
皇族さんは多少みなそうだ。
その一つの原因は大宮さんが少し御厚遇が過ぎるからだと思う。
大宮様は少し程度の過ぎた場合には御同意もできぬし、また理に合わぬことを仰せの時には議論もせねばならぬ。

昭和天皇◆良宮の和装の問題だがねー、呉服費も取ってくれたが、良宮は大宮様のハッキリした御同意がないと恐ろしくて作れないらしい。
このことでは何でもなくても、他のことで復讐されるというような気持ちで心配して躊躇してる。
田島長官◆田島が何かの形でもっと明示的な御同意をいただけば結構ということでございますか。
昭和天皇◆そうだ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は96万円

1951年2月5日
昭和天皇◆おたた様が前の式部長官武井守成のことをお褒めになるのはどういう理由からから私は知らぬが、宮中服を作る時に骨折ったことなどをお考えかもしれないが、宮中服は戦時型であり、また宮廷以外に用いられないことが民主的でないとの批評を買っていると思うのだが、おたた様はずいぶん宮中服のことを遊ばしたが、裳衣がダメだからという理由でなく、その前から一度もお召しにならないのでよくわからないのだ。
田島長官◆御服装の問題は難しゅうございますから、格別現状を変えず時には和服もお召しになり、
自然落ち着くところに落ち着きますことと存じますが、皇后様が和服をお用いになりますことを田島より明らかに大宮様に申し上げまするのは好機でなければならぬと存じます。

★1951年5月17日死去

1951年5月29日
昭和天皇◆昨日の三笠さんの話は服装のことであって、宮中服のことなど一般的な私の考え方を話し、また照ちゃん〔照宮成子内親王〕の今度の宮中服のことはむしろ良宮に聞くことで何だか物の軽重がおかしい。
良宮より女官長に言ってもいいような問題だ。
すぐ良宮に聞いたら照ちゃんも宮中服に決まった。

1951年6月5日
昭和天皇◆昨日突然秩父宮妃殿下と高松宮妃殿下が来られて、高松宮妃殿下は宮中服は失敗だったとの観念があるらしく、はっきりあれは間違いだったとの話はないが、秩父宮妃殿下は別の態度で何か一新軌軸を出そうとしたもので、一朝一夕に廃すべきでなく、また戦時に関連したものでもないとのお考えが強く、とても強固だ。
それほど時局に影響ないならば、その時にも私は言ったのだが「戦争済んでから日本古来の伝統も考えてゆっくり新しいものを創造していいではないか」
それをあの際やったのは、何と言っても戦時色あるを免れぬと思う。
三笠さんなども「洋服は米英式だ」と言ってたような時代で、
私は「ドイツ式でないのか」と言ったことがある。
だからこの際 私の天皇服のように一時 人の目の見える所のみとして、世の批評を聞き、再検討・再出発すればよいので、そのつなぎに和服をやってみれば、またそれの批評も出よう。
秩父宮妃殿下が宮中服成立の経緯につき、相当主張あることを物語りしゆえ、話が出るかもしれぬから参考に話す。
田島長官◆田島は大宮様に皇后様和服の明瞭な同意を得るつもりでありましたのが御崩御ですが、陛下の御趣意にも合しまするゆえ、和服をお始め願えばよいと存じます。
昭和天皇◆秩父宮妃殿下が宮中服に執着強く、改良してモノにしたい意思が強いが、何か古い伝統のあるものは廃するに忍びぬことがある。
田島長官◆それはそうでありますが、宮中服はそういうものではありませぬ。
昭和天皇◆そうだよ。

1951年7月13日
昭和天皇◆菊栄親睦会で朝香宮鳩彦王と東久邇宮稔彦王がしきりに私にゴルフをやれとの御話。
「私は採集などをやってこれも運動ですから、まあやりません」と言った。
どうも今ゴルフというのは一部の人には何か贅沢のような感じを与えてよくないと思う。
稔彦王に那須御用邸のリンクのことを聞かれたから、「草ぼうぼう」だと言ったら、
「みなの行くリンクの方に出かけたら」という話であった。
葉山であまり人目に立つというに、そんな御話だった。
だいたい皇族さんの発言はあまり考えないことが少なくない。
宮中服でも熱心にやり出して、不評の時は自分らはさっそくやめて、矢面に当るのは我々だ。
こんな馬鹿らしいことはない。
ゴルフが第二の宮中服みたようになるのは私は御免だ。

1951年10月4日
田島長官◆吉田首相、宮中服はあまり好かぬらしく。
昭和天皇◆あれは誰も好かぬ。
秩父宮妃殿下ぐらいだろう。

1951年11月1日
田島長官◆御用掛高木多都雄〔女性〕から「京都の大宮御所を東京へ移転できぬものか」との話がありましたが、「それは不可能かつ宮殿として理想的なものでもなく問題にならぬ」むね申しておきましたが、今度はまた「表から皇后様の御洋服を御注文になるのだが品目を書いてくれとのことでしたが」との話でありましたゆえ、「むしろ陛下の御思召で和服の問題があり、お金の準備も済んだ」と申しましたところ、和服はあまり賛成でなくむしろ宮中服がいいような口ぶりでありましたから、「なんと言っても宮中服は戦時服で、男の国民服が無くなった今日おかしい。和服もお用いになり、時には宮中服、時には御洋服という方向へ進みつつある」むねを話しておきました。
高木はなかなか意見を申し上げる人でありますようであります。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1952年1月25日
昭和天皇◆良宮の服装の問題話したのだが、宮中服は一般的に評判は悪し、なんといっても戦時色ないとは言えぬゆえこの機会にやめるからそのつもりで。

1952年3月26日
田島長官◆御用掛高木多都雄〔女性〕が訪ねて参りまして皇后様の御服装の話がありましたゆえ、従来陛下の和服の御話・宮中服の御話などもしておきました。
高木は宮中服はあまり悪くない意見らしくございますが、従来の経緯を詳細話しておきました。
すなわち現状では宮中服を規則の上でおやめとも申さず、和服も洋服も御自由という事を申しておきました。
和服は100万円を御用意いたしましたが、洋服は一つ80万円もかかるというようなことで、これは御新調の用意はございませぬ。

1952年4月21日
田島道治◆東京新聞に宮内庁の官吏の頭が固く最近まで宮中服をお願いしてたが、最近洋服や和服とかになり結構だという記事がありましたが。
昭和天皇◆そうか。
服は悪いとは書いてないか。

1952年6月21日
田島長官◆イギリスの日本協会に両陛下の写真を賜りたいというような意向が式部官長松平康昌までもたらされたようでありますが、皇后様の御服装の問題がありますので、宮中服のはいかがと存じます。
昭和天皇◆私は新しく写真を撮るように言ってある。
私もモーニングより背広の方がいいと言ってある。
田島長官◆こういう所へ賜りますのはイギリス国王などは大礼服の方が多いそうでございますが、皇后様は御和服でございますか御洋服でございますか。
昭和天皇◆宮中服はいかんので、和服でも洋服でもいい。
田島長官◆こういう場合お裾が長く引いたというような物がおよろしいのではないかと考えます。

1952年9月19日
田島長官◆服装がいろいろあって、秩父宮妃殿下や高松宮妃殿下などまた宮中服のようなものでも言い出されはせぬかというような気がして、私は秩父さんはお招きせん方がいいと決めた後であったので。

1952年10月24日
田島長官◆皇后様の御和服に関し、宮中服についてあった批難のようなものは少しも聞きません。
またデザイナー田中千代の御洋服もわかりませぬながらをよろしいのではないかと思います。
一般にもよろしいとの評でございます。
着付けでもなんでも、人柄良ければやはり専門が結構と存じます。

1952年11月12日
田島長官◆陛下が仰せになりまして以来時が経ちますが、皇后様の御和服の問題も結局時が解決いたしますので、大変評判がよろしいようでございます。
昭和天皇◆『週刊朝日』に林なんとかいう作家〔平林たい子〕が、少しわけのわからぬ矛盾したような事を言ってる。
あれの議論だと宮中服の方がいいというようなことにもなる。
田島長官◆あれはちょっと変わった女でアカががっておりましょう。
それ以外の人はだいたいよろしい意見で、デザイナー田中千代の話も少し過ぎた点はありますが、だいたいよろしいようでございます。
また御洋服も結構とのことであります。
宝石類になりましてはとうてい及びませんが、御和服でありますれば予算の点などは少しぐらい超過いたしましてもどうかなると存じます。
田島拝命の時マイナスになっておりました固有資産の方も増加いたしておりますゆえ、あまり予算に御束縛なく、どうしても必要な時は。
昭和天皇◆あの週刊のいい意味のオシャレか。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1953年1月14日
田島長官◆逆コース的な批判も考える必要ありまするのと経費の問題もありますので、モーニングに代る黒背広というようなことも考える必要あるかと存じますが。
昭和天皇◆大礼服となっても今の天皇服を少し工夫すればと思うが。
田島長官◆陛下御一人ならば何でもありませぬが、宮内官がこれに準ずるとなりました場合に自費では不可能で、備品となりますると予算の点がいかがかと存じます。
燕尾服でも同様でありますが。
昭和天皇◆経費の点、宮内官の分も考えねばならぬ。
田島長官◆今日の東京新聞に宮中服の問題がちょっと出ておりましたが、皇后様がお正月和服でおいでになり今後あらゆる式に和服と考え込んでいた人が、洋服の喪服の知識なしに申しておるのでありますが、これもは自分の知識なき独善論であります。

1952年1月24日
田島長官◆皇后様の御服装でございますが、時には和服なり時には洋服なりと相なりまするかと存じますが、一部にはまだ宮中服の論も残っておりまするが、皇后様とお話し合い願いたく存じます。

1952年3月25日
昭和天皇◆松平信子だがねー、信子は良い点もたくさんあるがいかぬ点もあるので、それは誰か若い人でその欠点を補う人を付けたらいいのではないかと思う。
信子をどうかと思った一例は、おたた様に宮中服のことをよく伝達してくれなかったことだ。
これは松平恒雄〔元宮内大臣〕と信子〔恒雄の妻〕の連絡が悪かったためかもしれん。
また信子が私の気持がわかってても、おたた様への申し上げようがいけなかったのかどちらか知らぬが。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1953年6月22日
昭和天皇◆高松宮妃殿下もヴァイニング夫人の時に良宮に先んじて英語を習い、またじきに辞めてしまうとか、秩父さんが私にゴルフを勧め、それではとやりだすと御自分は飽きてやめておしまいになる。
秩父宮妃殿下も高松宮妃殿下と一緒に宮中服をお作りになるに熱心でいて、評判が悪くなると一緒になって悪口を言い、そして御自分は和服を着るというように、飽きやすくて人より先じたがったりなさるから、どうもそういう点が…。
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1945年 三笠宮夫妻
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左から 三笠宮百合子妃・高松宮喜久子妃・香淳皇后
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<聖護院別邸事件 幡新編>

1976年幡新守也(グアム島残留日本兵横井庄一の妻の兄)は
四男暢道に融資した3千万円が返済されなかったため、聖護院別邸・大谷専修学院の学生寮『修練舎』・宗務総長役宅の3点を差し押さえる。
当時宗務総長役宅には嶺藤総長が住んでいた。
聖護院別邸は別の債権者福田アツシ〔外字〕にも差し押さえられていたため、二重に差し押さえられたことになる。


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自称:哲学者・著述業 幡新守也(グアム島残留日本兵横井庄一の妻の兄)

1975年頃、最初にやってきたんが武内孝麿ちゅうて武内克麿(四男暢道側近の僧侶)の弟。
四男暢道の使い走りをしとった男やねえ。
それから克麿、続いて四男暢道が顔を見せるようになって、1億5千万円ほど貸してほしいと頼んできた。
「なんでそないに金が要るんや」と聞いたら、こない言うのよ。
「長男光紹と二男暢順にそれぞれ暴力団がついて東本願寺の財産を食い物にしようとしとる。この二人を切らんことには東本願寺はダメになってしまう。そこで自分たちもその筋に頼んで二人の悪行の数々を調べさせているが、その資料を手に入れるには1億5千万円ほどの金を渡さにゃならん」と言うわけですよ。
ヤクザに金を払ろて長男と二男に関する情報を取ろうちゅうわけやな。
実はこれ嘘やったことが後でわかったんやが、その当時はわからんわねえ。
そこでワシは「なんであんたらの兄弟喧嘩に金を払わにゃならんのや」言うて断ったんですよ。
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ところが四男暢道らは「その筋に金を渡す期限が迫ってきた。
払えないと東本願寺はいよいよ食い物にされてしまう」とうろたえた。
そこで幡新は場つなぎにと言って3千万円を貸す。


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自称:哲学者・著述業 幡新守也(グアム島残留日本兵横井庄一の妻の兄)

この3千万円は手形を取っただけで担保も取らずに貸したんですがね、
「どないして返すんや」と聞いたら、こないなこと言うんですよ。
「智子裏方が地方を回って合力をやる、そしたら10億やそこらの金はすぐ集まる」ちゅうんですよ。
えらい調子のええ話やったけど、それっきりですわな。
裏方が合力をやったという話も聞かんし、金も返しにけえへん。
そうこうしてるうちに年が明けて、例の手形乱発事件ですがな。

その直後やったと思うなあ、聖護院別邸を買うてくれと言うてきたんは。
「何を言うとるんか。まず前の3千万円を返すのが筋とちゃうか。第一ワシにはちゃんとした家があるのに、なんで聖護院別邸を買わなならんのや」ちゅうたんですわ。
そしたら「3千万円の代わりには烏丸の大谷大学の近くに200坪ほどの更地があるさかい、ひとつ見に行きましょ」言うんで、行ってみたんですわ。
そしたらこれが更地と全然違いますのやがな。
「こんなところ、学生が下宿みたいにして住んどるし、使い物にならん。登記費用だけでも馬鹿にならん。割にあわん」と言うたんですよ。
(これは学生寮『修練舎』のことである)
「では、その登記費用の代わりに」て持ち出したんが、宗務総長役宅。
「これならいくら嶺藤総長が反対しても、いざとなれば法主が嶺藤をクビにしてしまえば使い物になる」ちゅうわけですわ。
それで前に貸した3千万円については『修練舎』に宗務総長役宅をプラスすることで話がついたんで、
また聖護院別邸を買うてくれちゅう話になったわけ。
それで不動産の専門家に鑑定してもろたら、まあ3億ぐらいなら損はせえへんやろと皆が言う。
ほんまは5億円ぐらいはするやろが、人間は住んでるし(四男暢道一家のこと)所有権を移転するとなればどうせ争いになるから、そのぶん条件が悪いと言う。
それでまあ、鑑定より少しはずんで3億5千万円出しましょということになったんですよ。
この時は法主・裏方・四男暢道と3人で聖護院別邸で話をした。
裏方は「この子が育った『対嵐坊』も人手に渡ってしまいましたが、またこの子が住んでる家が人様の手に渡るというのも何かの因縁でしょうねえ」としんみり言うてましたよ。
そのとき印象に残ったことがあるんやが、法主が「あと10年若ければ私も改革派と戦うんやが、この年では」と弱々しく言うと、裏方が「何を気のお弱いことを」とたしなめとった。
主戦論者は裏方のようだったねえ。
それだけ四男暢道が可愛いんだろうねえ。

ところが四男暢道がね「6月半ばまでは所有権の移転登記をせんといてくれ」と言うんですよ。
「6月1日から宗議会が始まる。改革派が多数を占める僧侶が全国から集まってくる時期だから、ことを荒立てるとマズイ」と言うんだねえ。
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しかしその直前の5月25日、京都地裁は東本願寺から申請された大谷家の債務負担行為禁止等の仮処分を認める判決を下した。
これにより法主の借金や財産処分権は停止される。
慌てた幡新は、聖護院別邸・大谷専修学院の学生寮『修練舎』・宗務総長役宅の仮登記を行った。
一方、1億5千万円の担保として同じ聖護院別邸の書類を預かっていた福田アツシ〔外字〕も、慌てて幡新に遅れて3日後に仮登記を行った。

福田は「借金の担保として書類を渡しておきながら、知らない間に他人に売っていたのか」と愕然し、
幡新も「聖護院別邸の3億5千万円は福田に返す金に使うんだと言うとったのに、返さなかったんですよ。びっくりしたわ」とあきれた。

18年後の1994年大谷家の借金を肩代わりした東本願寺が、3千万の借金に利息を合わせて3,100万円を支払って和解が成立した。

<聖護院別邸事件 福田編>

四男暢道は福田アツシ〔外字〕(元総理大臣福田赳夫の甥)の紹介で、横浜の会社から1億5千万円を借りた。
借り手の名義は光暢法主、保証人は福田アツシである。
ところが四男暢道が返済しなかったため、1976年福田は聖護院別邸を差し押さえた。
別の債権者幡新守也も差し押さえていたため、聖護院別邸は二重に差し押さえられたことになる。


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元総理大臣福田赳夫の甥 福田アツシ〔外字〕

今まではオヤジ(福田赳夫)に迷惑がかかってはいかんと思って黙っていた。
そもそもの馴れ初めから話しましょうか。
ある人の紹介で四男暢道と武内克麿(四男暢道側近の僧侶)がやって来たんです。
東本願寺の息子だし、母親は皇后様の妹だし、信用しない方が不思議でしょう。
それで、ごく普通のつきあいが始まったわけです。
御上(光暢法主)や裏方(智子)にも何度もお目にかかりました。
私が京都へ行ってお住まいで一緒に食事をいただいたこともあるし、法主夫妻が東京へ来ると、いつも泊まる帝国ホテルで食事を差し上げたりしました。

オヤジは私とは別のルートで法主と知り合ったんです。
代議士の大橋武夫さんが東本願寺の門徒で、オヤジは大橋さんに紹介されて法主には何度か会っているんです。
いつも法主夫婦の後ろの方でチョロチョロしている男がいる。
オヤジが「ありゃ何者だい」と聞くので、私が「あれが有名な吹原弘宣ですよ」と教えると、
「へえ、あれが吹原か。でもなんで吹原が東本願寺と一緒にいるんだい」なんて言ってました。

なんでも、保守派と改革派というのがあって、改革派は東本願寺乗っ取りを企んでる。
これをなんとか防がなくちゃならんのだが、そのためには金が要るんだと言うんですなあ。
選挙の応援もしてもらっていたし、なんとか助けてあげたいと思ったわけですよ。
それで当時私が顧問をしていた横浜の会社を紹介した。
借りてやったのは1974年だったと思うんですがねえ。
1973年の末だったかもしれない。
ともかくその頃ですよ。

ところが、期限が来ても金は返せないと言うんですな。
その時点で私はまだ彼らを信用しとったから返せないのは気の毒だと思って、自分で5千万円都合し、あと1億円は知り合いの会社に頼んで手形を切ってもらって、とにかく横浜の会社には返したんです。
しばらくして私も金が必要になったので銀行に頼んで手形(四男暢道が振り出した元の1億5千万円の手形)を割り引いてもらおうとしたんですよ。
そしたら、この手形が全く使い物にならない偽物だとわかった。
東本願寺の息子だからと疑ってみもしなかっただけに愕然としましたな。
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四男暢道が光暢法主名義で振り出していた手形は光暢法主の口座のものではなく、
他人の口座の白紙の手形を入手して金額を書き入れていたものだった。


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元総理大臣福田赳夫の甥 福田アツシ〔外字〕

これは明らかに詐欺です。
私が訴えなかったのは四男暢道はともかく相手が東本願寺であり、事を荒立ててオヤジに迷惑がかかっちゃいかんと思ったからに他ならない。
今日まで我慢に我慢を重ねとったんです。
例の枳殻邸の問題ね、あれは私が松本裕夫さんに忠告したんですよ。
松本さんが法主に金を出してるという話を聞いたんで、私の二の舞を踏んじゃいかんから、ちゃんと担保を押さえてからにしなきゃいかんと言ったんです。
私も松本さんも他の人も、みな同じ手口でやられてる。
あの連中は知らない人のとろこへ行って東本願寺で信用させて、返すアテのない借金を膨らませている。
明らかな手形詐欺、普通の人間だったらとっくの昔に捕まってますよ。
あの連中はきちんとした形にすると、自分たちの思うように金が入らないので反対する。
結局のところ、四男暢道や武内らを切らんと東本願寺の紛争は解決の糸口ができない。
これが私の苦い経験から得た結論ですな。
高い授業料につきましたが。
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8年後の1984年、大谷家の借金を肩代わりした東本願寺が7千万円を支払って和解が成立した。

<枳殻邸事件>

1978年光暢法主が枳殻邸/渉成園を松本裕夫(京都のビル会社社長)に30億円で売却する。
記者会見で、光暢法主は「東本願寺が独立するにあたって松本氏に感謝している。東本願寺の財産を正常化するために使用する」と発言。
三池新二(四男暢道側近の不動産業者)は「売却するのではない。東本願寺正常化のための資金援助を受ける担保として一年間お預けするだけ」と発言。
30億円を渡した京都のビル会社社長松本裕夫は「資金を出す裏付けとして、一年間お預かりする」と発言した。

しかし翌1979年松本は、光暢法主・四男暢道・四男暢道側近の不動産業者三池新二と共に背任容疑で書類送検されてしまう。

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裕光株式会社(京都のビル会社)社長 松本裕夫

1978年の3月頃でしたかな、三池から1,500万円ばかり貸してくれと言われましてね。
仕事の関係で20年来のつきあいやし、まあええやろということで貸したのが始まりですわ。
三池が「一度光暢法主に会ってやってくれんか」と言うので、御池飯店で水炊きをつつきながらお会いしました。
智子裏方・四男暢道・武内克麿(四男暢道側近の僧侶)も一緒やったな。
それからも法主とお裏さんには何度かお目にかかってます。

三池はそれからも何度か金を借りに来て、気がついた時には数千万の金が出てた。
いくらお寺さんでも、なんでこないに金が要るんやろと不思議な気がしましてな。
私も仕方ないから東本願寺のことを勉強しましたがな。
調べてみると、これがもうめちゃくちゃ。
借金が雪だるま式に増えて自転車操業やっとんのやから、いくら金があっても足りんはずですわ。

私も商売人ですさかい、お寺さんに金貸しても利益になるわけやないから、やめよと思たんですわ。
そやけど既に数千万円つぎ込んでしもてるし、返ってくるアテもないんやから後戻りできまへんがな。
「助けてもらわんと法主はパンクしてしまう」て言いよるしねえ。
親鸞の血をひく生き仏で皇后陛下の妹さんを奥方にしてるような偉い御方が困っておられるのやったら、お助けしよかという気にもなりますがな。
でも私としても「何にも無しでこれ以上ズルズル貸し続けることはでけん」と言うたんですわ。
そしたら四男暢道・武内・三池は「それなら枳殻邸をお譲りしますから、援助を続けていただきたい」て言いましてね。
私は法主にお目にかかって、直筆の念書もちゃんといただいてます。

三池から電話がありましてな。「記者会見があるから出てくれへんか」て言うんです。
ところがいよいよ記者会見が始まる直前になって三池が「松本さん、あれ一時金を貸しただけやいうことにしてくれへんか、頼むわ」て言うんです。
「それ、話が違うやないか」て言うてるうちに記者会見が始まってしもた。
で、三池があんなこと喋ったわけですわ。
私もいまさら違うとも言われへんしねえ。
しょうがないから、今まで黙っとったんですわ。

どこを調べてもろてもかまいませんけど、私は東本願寺に貸した金について利子はビタ一文も取ってません。
私は金貸しとは違うんやから。
法主が私に枳殻邸を売るという念書を書かれて、四男暢道たちはそれで援助を続けてくれと言うたんやから、利子を取れるはずがありませんわ。
これほどまでした私が、なんで背任で告訴されなあきませんねん。
宗門のことには一切口出しもせんと、四男暢道たちの乱脈にもじっと我慢して見守ってきたのにですよ。
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16年後の1994年、大谷家の借金を肩代わりした東本願寺が5億3千万円を支払って和解が成立した。

<名号ネクタイ事件>

1973年光暢法主が、直筆の南無阿弥陀仏の六文字(名号)をデザインしたネクタイを1万の末寺を通じて門徒に売ろうとした事件。
表向きは、大阪の本泉寺の住職若松晴が企画したことになっている。
東本願寺内局が計画を差し止めたため、ネクタイ会社が損害賠償を求める訴えを起こして翌年発覚。
訴状によると、1本5,000円のネクタイ10万本の製作費販売費の損失が1千万円、完売した場合の予定利益は5億円だった。

<難波別院事件>

1973年光暢法主が、大阪にある難波別院の400坪の土地に貸しビルを建て、賃貸料を儲けようとした事件。
表向きは、同じく若松晴が企画したことになっている。
大阪の不動産会社から数回に渡り計7千万円を受け取った。
しかし正規の手続きを経ていなかったため計画は差し止め、結果的に若松が7千万円を詐取した形となり、訴えられて翌年発覚。

<宇治土地事件>

1973年光暢法主が、京都宇治にある本願寺維持財団の土地1,100坪を1億3338万円で売り、滋賀県の山林を5千万円で買って土地交換を行い、差額の8338万円を儲けようとした事件。
表向きは、同じく若松晴が企画したことになっている。
本願寺維持財団理事長の二男暢順が気づいて未然に防いだ。
しかし不動産業者から内金として3,500万円を受け取っていたため、結果的に若松が3,500万円を詐取した形となり、訴えられて翌年発覚。


『難波別院事件』と『宇治土地事件』で合計1億500万円を詐取したことになる若松は、1974年6月、妻子を連れてドイツに逃亡する。
逃亡前日に若松の銀行口座に四男暢道名義で1千万円の振込があり、逃亡当日に若松が全額引き出していたことが京都府警の捜査で判明している。
3年間海外で逃亡生活を送ったのち1977年に帰国、自首した。
単独犯行であることを主張、有罪判決を受けたが控訴せず服役した。

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